シリウス・峠のランプ 大天使ウリエル

 地球上の全ての生命体が、安心して、健康で、楽しく、幸せに暮らす地球になるのが遅すぎてイヤになった。NESARA知らない人もまだいるみたいだしね? で、ブログ始めることにしました。 草々。 2017.8.4.ウリ.

『汝自身を癒せ (前半)』 by Edward Bach.(1931年)

 医療機関(病院)が、(生前死後の世界に渡る)暗黒勢力のコントロールの一環だと知らない(もしくは、忘れてしまって)で、世の中にならって病院にかかり、病気でもないのに病気になったり、余計、病気になったり、命まで落としてしまってる人がたくさんいるように思う。病院と薬につかまってしまってる人が沢山いらっしゃる思う?

 それとそのほか思うことあり(何となく)エドワード・バッチさんのをもう一つ、Upすることにしました。(間もなく宇宙時代なるし、病気はすぐ治るとのことなので、あとちょっとの辛抱だし、あんま、タイムリーじゃないかもなんだけどね? どうせならもっと早くUpすれば良かったね?)

 以下、エドワード・バッチ著 “フラワーレメディーの真髄を探るエドワード・バッチ著作集”より、転載させて頂きます。

 

f:id:daitenshiurieru:20180107171528j:plain

『汝自身を癒せ』

~病気の真の原因と治癒について~

 苦しみに耐え、悲嘆にくれる全ての人のために

 

1章

 

 本書のねらいは、医術は不要だと述べることではありません。そのような気持ちは全くなく、病に苦しむ人々が病気の真の原因を自分の内に見出し、それを癒す方法を伝えるためにあります。加えて、人々の幸福を願う、医療の専門家と信仰に携わる人たちが、人間の苦しみを和らげ、病の回復を早める努力を一層強めることを願うものです。

 現代医学の失敗は、病気の原因ではなく、結果を扱っていることです。

 病の真の原因は、何世紀にも渡る唯物主義に覆い隠されてきました。人間が病気のもとに対処しなかったことで、病に猛威をふるわせるあらゆる機会を与えてきたのです。その状況は、国中でゲリラ戦が行われ、敵が丘に堅牢な要塞を築いているのに、それを無視して、襲撃で壊れた家を直したり死者を葬ることで、満足しているようなものです。概してこれが医学の現状です。対処すべき要塞について考えず、傷を負った者に手当を施し、殺された人を葬っているに過ぎません。

 病気の原因は物質ではないという単純な理由から、現在の唯物主義的な治療法で、病が回復する、つまり根本からなくなることはありません。私たちが病気ととらえているのは、長い間の行動が体に影響し、それが深く根づいた最終的な結果です。たとえ、治療が物理的にうまくいったように見えても、本当の原因が取り除かれていなければ、一時しのぎにしか過ぎません。現代医学は、病気の真の性質を誤って理解し、肉体の物理的な面に集中することで、病の力を大いに強めてきました。つまり、第一に、病気の本当の原因とその効果的な対処方法から人々の気をそらすことによって、また第二に、原因を肉体面に特定することによって、人々の回復への真の希望を覆い隠してしまいました。そして、病気に対する恐怖心が現実の病気と強力に結びつき、病勢を強めてきたのです。しかし、恐怖心とは本来、人間に決して存在するはずのないものです。

 病気とは本質的に、魂と心が葛藤した結果であり、霊的、精神的な努力なくして消えることはありません。そのことを理解し適切に努力するなら、後述するように、病気の根本原因を取り除くことで、病を治すことも防ぐことも可能です。肉体だけを扱う治療は、表面上の回復をもたらすだけで、真の治療には至りません。病根は依然として影響を及ぼし、今にも別の形で表れるでしょう。実際に、多くの場合において、うわべだけの回復では有害です。それは、問題の本当の原因を隠し、取り戻したかに見える健康に満足する内側で、真の原因が気づかれずに力を増しているからです。これと対照的なのが、病に作用する有害な、霊的な、精神的影響力の本質を理解している患者の場合です。彼らは賢明な医師から、病気に作用する力の本質と、それが肉体に引き起こす病と呼ばれるものの結果について教えられています。このような患者が、直ちに有害な影響力をなくすべく適切に努力を始めるなら、不調はすぐに改善し、最終的に病は消えてなくなります。これが、先の例で言えば、要塞、すなわち病気の原因の、まさに基部を攻撃する本当の治療と言えます。

 現代医学における唯物主義的な方法論の例外のひとつは、ホメオパシー創始者、偉大なるハーネマンによるものです。彼は、人間の内に備わっている神性と創造主の慈悲深い愛を理解していました。そして、患者の人生、置かれている環境、患っている病気に対する気持ちを詳しく調べることによって、体を治すだけでなく、精神面でのものの見方や考え方を高めるレメディ―を、野辺のハーブや自然界に見つけ出そうとしました。ハーネマンの研究が、真の医師によって社会に広まり、発展していくことを祈ります。真の医師とは、人々に対する慈愛を心に抱いている人です。

 キリストが生まれる500年前、古代インドではブッダの教えのもとに働く医師たちが手術を廃止できるほど、医術を完全な段階にまで発達させました。当時の外科治療が現在と同じか、それ以上有効であったにもかかわらず、彼らは手術を廃止したのです。西洋においては、治療に関する力強い理想を抱いたヒポクラテス、人間に内在する神性を確信したパラケルスス、そして、病気が肉体を越えた面で生じていることを明確に理解したハーネマン、彼ら全員が、病気の本質と治療法を熟知していました。このような偉大なる師の教えに従っていたなら、過去2千年、いや2千5百年の間、きわめて多くの苦痛を人間が経験する必要はなかったのですが、他のことと同様、唯物主義が西洋人に非常に強い影響を与えました。そのため、とても長い間、真理を知る人の忠告は実用主義の妨害者の声に抑えつけられて来たのです。

 簡単に述べると、病気はたいへん残酷に見えますが、本来は有益で人間の役に立つものです。正しく解釈すれば、病は非常に重要な誤りに気づかせてくれます。病気を適切に扱うなら間違いをなくすきっかけとなり、以前より健康になれます。病は、学ぶべき課題を指摘する矯正手段です。それは私たちがこれまで別の方法で与えられながら、機会を逃してきたものです。人はその課題を学ぶまで、病気をなくすことはできません。前駆症状の意味を理解し、その本質を見抜くことのできる人が、誤りを正すための適切な努力を、霊的に、精神的に行うならば、病気を未然に防ぐことができます。また、病気の始まりで進行を阻止することも可能です。

 いかに耐え難くとも、絶望する必要はありません。それは、まだ肉体に生かされているという事実が、肉体をつかさどる魂に希望があることを示しているからです。

 

2章

 

 病気の本質を理解するには、生命の大原則を認める必要があります。

 その第一は、人間は魂を宿しているということです。魂とは、本当の自分自身、すなわち神聖な偉大なる存在であり、万物の創造主の子どもです。体は、魂のこの世の神殿ですが、魂を映し出すほんの小さな存在にしか過ぎません。魂、すなわち人間の内にも周囲にも存在する神性は、人々のために人生に秩序を持たせることを願い、その通りに人生を定めています。その秩序に人間が従う限り、神は常に道を示し、保護と励ましを与え暖かく見守り、何時も最善へと導いてくれます。魂、すなわち私たちの高次の自己は、後述するように、全能の神が発する火花なので、傷つけられることのない永遠の存在です。

 二番目の原則は、人が自分自身ととらえている自分とは、人生を通じてあらゆる知識と経験を手に入れるために、この世に生まれた人格であるということです。不十分な長所を十分に発展させ、心の内のあらゆる間違いを一掃して、自らの気質を完成の域へと高めるためにこの世に生まれています。魂は、どのような環境や境遇が成長のために最善かを知っていて、その目的に最もかなった人生の支流に人間を配しています。

 第三に、人が人生ととらえているこの世の短い旅路は、魂の成長の過程ではほんの一瞬にしか過ぎないということです。魂にとって、人生はちょうど、人生における学校の一日のようなものです。今の時点で、人は学校の一日を経験し理解することしかできません。けれども、直感が、この世での誕生は真の始まりから限りなく遠く、死も本当の終りからはるかに遠いことを教えてくれます。魂とは、本当の自分であり永遠の存在です。そして、人が自覚できる魂の仮の住処である体は、旅に乗る馬か、仕事に使う道具にしかすぎません。

 続く第四の重要な原則は、魂と人格が調和している限り、あらゆるものが喜びと平和の内にあり、幸福と健康がもたらされるということです。人格が魂の定めた道筋から外れる時、また世俗の欲や他の人の意見に影響を受ける時、葛藤が起こります。この葛藤こそが、病気と不幸の根本原因です。この世での仕事が何であろうと ― 靴磨きであれ、国王であれ、あるいは地主あれ、小作人であれ、また裕福でも貧しくても ― 魂の命ずる声に従い、なすべき仕事を行う限り、全てはうまくいきます。またさらに安心できるのは、人生に定められた地位にかかわらず、身分が高くても低くても、魂は成長に必要な課題と経験を携え、私たちの進歩為に最善を与えてくれるということです。

 次に重要な原則は、万物のユニティ(全体性)です。つまり、万物の創造主は愛であること、また人間が目にするあらゆるものは、その無数の形の中に ― 惑星であれ小石であれ、星や露のしずくであれ、また人間でも単細胞の生物でも ― 神聖なる愛の表れであることを十分理解する必要があります。この考えを概観するには、創造主を、愛と慈悲で燃える巨大な太陽ととらえると良いでしょう。太陽の中心からは、あらゆる方向に無数の光線が放たれています。人間と人間が目にする全てのものは、その光線の先の小さな粒子です。経験と知識を獲得するために送り出され、最終的にはその巨大な中心へと戻っていく存在です。その光線はそれぞれ独立して異なっているように見えますが、実際には、中心にある大きな太陽の一部です。源から切り離されるとすぐ消えてしまうので、分離することは不可能です。それぞれの光線に個性があっても、中心の巨大な創造力の一部なので分離はあり得ません。したがって、自分自身や他の人に背く、どんな行動も全体に影響します。ある一部に起こる不備が全体に影響しますから、そのあらゆるかけらが最終的に完全な域に達していかなければなりません。

 ですからここで、重要かつ根本的な2つの誤りが起こり得ることがわかります。その誤りとは、魂と人格の分離と、他の人に対する残酷、あるいは不正です。他の人に対する残酷は、ユニティに背く罪です。そして、この2つのいずれもが人の心に葛藤をもたらし、それが病気を引き起こします。自分がどこで間違いを犯しているのかを理解し(気づかないことが多いですが)、それを正すよう真剣に努力するならば、人は人生に喜びと平和をもたらし、健康を取り戻すことができます。

 病気は、本来有益であり、人格を魂の神聖なる意志へと引き戻すために生じています。ですから、人が自分の犯している間違いを十分に理解し、霊的、精神的な方法で正すことさえできたら、病の厳しい課題は必要なくなります。そのようにして、病気は予防することも回復することも可能なのです。人間には、神聖なる力によって、それまでの行為を改めるあらゆる機会が与えられています。痛みと苦しみは、その最後の手段としてもたらされています。取り組んでいる誤りは、現世、すなわち、魂にとって、今学んでいる学校の一日のことではないかもしれません。また、人間の現実的な思考は、苦痛の原因を理解できず、苦しみは残酷で、理由のないものに見えることもあるでしょう。けれども、人間の魂、本当の自分自身である魂は、目的の全貌を知っていて、最善へと導いています。自分の間違いを理解し、改めることで、人は病気の回復を早め、健康を取り戻すことができます。ですから、魂の目的を知り、それに黙って従うことは、この世の苦悩が軽くなることを意味します。そして、人間は喜びと幸せとともに自由に成長することができるのです。

 根本的な2つの誤り ― 魂と人格の分離、他の人に対する残酷あるいは不正 ― は、魂の命ずる声を受け入れず従わないこと、そして、ユニティに反する行動を取ることです。魂の声を受け入れず従わないことで、他の人を決めつけるのはどんなことがあっても避けてください。なぜなら、ある人にとって正しいことが、別の人には間違いであることもあるからです。例えば、商人の仕事は、自分のためだけでなく全従業員のために利益を上げることです。そのために効率と管理の知識を得て、それに関係する長所を養い、身につけなければなりません。商人は、病人の看護に命を捧げる看護師の知識とは違った才能や長所を使う必要に迫られます。けれども、両者がともに魂の命ずる声に従っているなら、成長のために必要な性質を適切に身につけていると言えます。したがって、魂、すなわち高次の自己の指示に従うこと、これが非常に大切です。人はその指示を、良心、本能、直感を通じて知ることができます。

 以上のように、病気は、その根本原因と本質を理解することによって、予防も回復も可能です。霊的、精神的な治療者や医師の務めは、患者に物質的に治療を施すだけでなく、生きる上での誤りとその誤りを一掃する方法を教え、健康と喜びを取り戻すよう促すことです。

 

3章

 

 私たちが病気ととらえているものは、もっと深い部分での混乱の最終段階です。確実に完治をもたらすには、根本原因を取り除かない限り、最後に現れた結果だけを扱っても十分な効果は得られません。人間が犯し得る根本的な誤りはたった一つ、ユニティに背く行為、これだけしかありません。これは自己愛から生じています。ですから、不快、病気といった苦痛の元も、たったひとつだと言えるでしょう。ユニティに背く行為が、さまざまなタイプに分けられるのと同様に、その結果である病気も原因に応じて主要なグループに分類できます。病気の性質はまさに、愛とユニティという神聖なる教えに背く行動のタイプを見つけ出す有力な手がかりとなります。

 私たちに万物への愛が十分にあれば、他の人を傷つけることはできません。なぜなら、愛は人を傷つけるどんな行為も考えも押し留めてくれるからです。しかし、私たちはまだそのような完全な段階に至っていません。至っていたら、この世に生きる必要はないでしょう。私たちは皆、完全な段階を目指して進んでいます。心身に苦痛を負う人は、まさにその苦しみによって、理想の状態へと導かれています。それを正しく読み取ろうとするだけで、目標への歩みを早めるだけでなく、病気と苦痛から自らを救うことができます。人が課題を理解し、誤りを一掃した瞬間から修正の必要はなくなります。苦痛は、私たちが道を誤った時に、その間違いを指摘し、輝ける完成に向けて成長を早めていることを忘れてはなりません。

 人間の真の病とは本来、高慢、残酷、憎しみ、自己愛、無知、心の不安定さ、貪欲と言った欠点を指します。この一つひとつを考察すると、各々がユニティに反しているのが分かります。このような欠点が、現代の言葉を用いれば、本当の『病気(disease)」です。人が、そのような欠点を間違いだと気づくほど成長しているのに、それを改めず同じ行動を取り続けていると、病気という有害な結果を体に引き起こすのです。

 高慢は、第一に、人格が魂に完全に依存している、小さな存在であることを認めないために起こります。自分が経験する成功の全てが、人格ではなく内なる神性から授けられた恵みであることを認めません。また第二に、高慢は分別を失っているために生まれます。つまり、自分が万物創造の計画において、ほんの小さな存在に過ぎないことをわきまえないために生れます。そして、偉大なる創造主の意志に謙虚に従うことを拒否させ、創造主の意志に反した行動を取らせます。

 残酷は、万物が一体であることを否定します。そして、他の人に敵対するどんな行動も、全体と対立する、寄ってユニティに反する行動であることを理解しません。自分に身近で親しい人を傷つける者はいないでしょう。人間は、ユニティの法則に従い、あらゆる人が全体の一部として身近で親しい存在となるべきです。そのことを納得できるようになるまで、人は成長しなければなりません。また、自分を悩ます人にさえ、愛と思いやりの情だけを呼び起こせるほど自らを養う必要があります。

 憎しみは、愛の反対、つまり万物創造の原則と対立するものです。そして、神聖なる計画全体に反し、創造主を否定します。憎しみは、愛が命じるのとは逆のユニティに背く行動や思考だけに私たちを導きます。

 自己愛もまた、ユニティを否定することです。社会に役立ち、身近な人を世話して保護することより、自分の関心事を優先させ、仲間に負っている義務を拒否するよう仕向けます。

 無知とは、学ばないこと、つまり、機会が与えられているのに真実を見るのを拒むことです。そして、真理と認識の光に包まれている時にはあり得ない、暗闇にしか存在し得ないような多くの誤った行動に人々を追い込みます。

 心の不安定さ、優柔不断と意志の弱さは、人格が高次の自己の声に従うのを拒んだ結果であり、心の弱さを通じて他の人を裏切るよう仕向けるものです。この状態は、人が心の内で、本当の自分である不屈で無敵な神性を理解していれば起こるはずのないものです。

 貪欲は、権力欲に結びつき、あらゆる魂に自由と個性があることを否定します。人間は皆、魂の命ずる声だけに従って、自分らしいやり方で自由に成長する為にこの世に生まれています。また、個性を育み、誰にも妨げられず、自発的になすべき仕事をするために命を与えられています。しかし、貪欲な人格はそれを理解せず、創造主の力を侵して自らが指示を与え、型にはめ、支配することを強く望むのです。

 以上が、病の実体です。これらは人間のあらゆる悩みや苦痛のきっかけとなる根源です。高次の自己の声に抗い続けると、これらの欠点が当然肉体に影響し、対立を生み出します。そして、その対立が病に特定の症状をもたらすのです。

 したがって、患っている病気の症状が、その苦しみの奥にひそむ欠点を見つけ出す導きとなります。例えば、高慢さは、傲慢で堅い柔軟さのない心を指しますが、これは体に堅さとこわばりを生む病気を引き起こします。痛みは、残酷の結果であり、患者は自分の苦痛を通じて、他の人を肉体的にも精神的にも傷つけてはならないことを学びます。憎しみの報いは、孤独感、暴力的で抑制できないかんしゃく、精神的な激しい苛立ちとヒステリー状態です。内攻性の病気 ― ノイローゼ、神経症、あるいはそれに類する状態 ― は、人生からとても多くの楽しみを奪いますが、これは過度な自己愛によって引き起こされます。無知と知恵の欠如は、それだけでも日常生活を難しくしますが、加えて、機会が与えられているのに現実を直視せずにいれば、当然の結果として近視や視覚・聴覚の障害を患うことになります。心が不安定であれば、体に同様の不安定さをもたらし、筋肉の動きとその連携に関係するさまざまな障害を引き起こします。貪欲や他の人に対する支配は、欲望や野心を制限して、人を体に隷属させるような病に至らせます。

 また、不調となる体の部位こそが、偶然ではなく、原因と結果の法則に従って、人間を導いています。例えば心臓は、生命の源、よって愛の源と言えます。この心臓は、特に心の愛の面が、慈愛に向かって成長していない時や、正しく使われていない時に病に襲われます。同様に、手の痛みは、行動が十分でない、あるいは間違っていることを示します。また、制御中枢である脳が病に犯された場合、自制する力が足りないことを表します。このように、法則が定めている通りに、結果がもたらされます。人は皆、かんしゃくや突然の悪い知らせのショックの後に起こるさまざまな反応を、自ずと認めるものです。長期に渡る魂と肉体との対立は、もっと深刻で根深い影響を与えると言えるでしょう。その結果が、今日、病気として人間に耐え難い不満をもたらしていることに何の不思議もありません。

 しかし、だからといって、憂鬱になる必要もないのです。それは、欠点を自分の内に見つけ出し、これを打ち破る長所を真剣に養って、欠点を流し去るなら、病気の予防も回復も可能だからです。欠点と戦うのではなく、反対の長所をあふれさせることで、欠点は私たちの気質から一掃されます。

 

4章

 

 このように、病に犯される体の部位とその症状は、偶然現れるのではなく、他のあらゆるエネルギーと同様、原因と結果の法則に従っています。ある病気は、物質的な要因 ― 毒性や事故、ひどい不摂生など ― によって、直接引き起こされているかもしれません。しかし、通常、病は先に示した例の通り、自分の気質にある欠点が原因で起こっています。

 ですから、病気を完全に治すには、最良の治療手段を選びながら、物質的な方法によるだけでなく、自分の性質にある誤りを取り除くようできる限り努力しなければなりません。なぜなら最終的な完治は、根本的に私たちの内側、魂そのものからもたらされるからです。人間が魂に従うならば、その恩恵が調和の光を、人格のすみずみに照らし出します。

 あらゆる病には、重要な根本原因、つまり自己愛があります。したがって、苦痛の全てを取り去る確実な方法とは、自己愛を転換すること、つまり、自分に向けている愛を他の人へと献身的な慈愛へと変えることです。かりに私たちが、知識を得、他の人たちの力になるという名誉ある経験を楽しみながら、周囲の人への愛と思いやりに我を忘れるという長所を十分に育めたら、個人的な悲しみや苦しみはすぐに終わります。人間の大いなる究極の目的は、人々への献身の中に私心をなくしていくことです。魂が定めた境遇は、問題ではありません。仕事がなんであろうと ― 肉体労働であれ、知的職業であれ、また裕福であれ、貧乏であれ、君主でも物乞いでも ― 人は皆が各自の使命である、なすべき仕事を進めていくことができます。そして、友愛という神の愛を周囲の人に伝えることで、本当の恵みとなれるのです。

 けれども、私たちの大多数には、この状態に達するまでに旅しなければならない、相当の道のりがあります。しかし、完成に向かう道に沿って真剣に努力するなら、誰もがこの道を驚くほど早く進むことができます。私たちが、貧弱な人格だけを信じるのではなく、この世の偉大な師たちの残した教えと模範に従うことで、内なる神である魂と自分自身を一致させていけるという絶対的な信念を持つならば、全ては可能となります。人間には大抵、特に成長を妨げている有害な欠点が、少なくともひとつはあるものです。その欠点を、自分の内に見つけ出さなければなりません。本質である愛の面を養い、人々に向けて拡大していくよう努力しながら、同時にどんな欠点も、相反する長所であふれさせ、長し去るよう努めるべきです。はじめのうち、これは少し難しいかもしれませんが、それは、ほんのはじめだけです。というのも、人が内なる神の助けを得て努力を続けるなら、失敗はあり得ないと理解するようになるからです。それによって長所は養われ、驚くほど早く成長します。

 人が心の内に完全なる愛を養っていく過程で、ますます悟らねばならないことは、人は皆、未熟であっても、創造主から生まれた子どもであるということです。そして、最終的には全員が、望む通りに完成の域へと成長できることを理解しなければなりません。人間や動物が、どんなに卑しく見えようとも、その存在の内に、神の火花があることを忘れてはなりません。神聖なる火花は、ゆっくりと確実に成長し、ついには創造主の輝かしい光に照らされるようになるのです。

 加えて、正と不正、善と悪に関する問題は単に相対的な物です。先住民族の、自然にかなった成長において正しいことが、文明社会で教育を受けた人には正しくないかもしれません。また、私たちのような人間には善行と言えることも、特定の思想や教えを学ぶ人には不適当な誤りということもあるでしょう。 ~ 少し省略(くたびれた長いし) ~

 自分ぼ高慢さに悩む時は、次のことを理解するよう努めましょう。つまり、私たちは本来、天からもたらされる光、魂の光に後押しされなければ、闇の力に抵抗することも、満足する力を発揮して良い仕事をすることもできない、無に等しい存在だということです。また、創造主の無限なる力と、考えられないほどの偉大さを少しでも理解するよう努力しましょう。創造主は、水のひとしずくから銀河系に至るまで、世界の全てを完璧な調和の中に作り出しています。人間は偉大なる創造主に完全に依存し、その加護と恩恵を受けていることを謙虚に認めるよう努めましょう。私たちは優れた人を尊敬し、警意を表します。ならば、万物の偉大なる創造主の前では、もっと謙虚に自分の弱さを認めるべきでしょう。

 残酷さや憎しみが成長を阻むなら、愛が世界の基盤であることを思い出して下さい。そして、この世に生きるあらゆる魂には長所があり、しかし最良の人の中にも、多少の欠点があることを心に留めましょう。他の人の中に ― はじめは自分の気持ちを傷つけた人の中にさえ ― 長所を見つけ出すことで、少なくとも、その人がより良い方法を理解するだろうという希望と思いやりを育てていけます。そうすると、彼らが成長する力になりたいという気持ちが湧いてくるようになるでしょう。勝利とは最終的に必ず、愛と優しさを通じてもたらされるものです。この2つを十分に育てるなら、自分を苦しめるものは何もなくなります。それは抵抗することがなくなり、いつも思いやりを持てるようになるからです。というのも、これも原因と結果の法則に従い、人は抵抗した結果、傷を受けるからです。私たちの生きる目的とは、他の人の影響に妨げられず、高次の自己の命ずる声に従うことです。そのためには、自分らしい道を穏やかに進む必要があります。と同時に、他の人に対しても決して干渉せず、意地悪や憎しみで人を傷つけないことです。そのようにして初めて、魂の指示に従えるようになるのです。私たちは他の人を愛せるよう努力しなければなりません。おそらく最初は一人の人間、あるいは動物を愛することから始まるでしょう。愛する気持ちを養い、強めていくことで、ついには反対の欠点がいつのまにか消えていきます。それは、憎しみが憎しみをもたらすように、愛が愛をもたらすからです。

 自己愛を解決するには、自分に向ける関心を他の人に向けることです。他の人の幸福に没頭するよう努めるうちに、自分のことを忘れるようになります。ある偉大な修道会はそれを、「苦しむ仲間に、安らぎやいたわりを示すことで、自らを慰めるを得る」と表しています。これ以上に、自己愛とそれによる不調を治す確実な方法はありません。

 心の不安定さは、自己決断力を養うことで一掃できます。つまり、迷って決めかねるかわりに、明確に決意し行動することでなくすことができます。たとえはじめは間違いを犯すことがあっても、決心が足りず機会を逃すより、行動する方が良いのです。決断力はじきに育ちます。そして、人生に深く根づいていた恐れは姿を消し、行動を通じて得た経験が心をより良い判断へと導いてくれます。

 無知をなくすためにも、経験を恐れないでいきましょう。意識と感性を研ぎ澄まし、可能な限り、ありとあらゆる知識を受け取りましょう。と同時に、私たちは柔軟で素直な思考を持ち続ける必要があります。これまでの考えや信念が、より広い、新しい知識を得る妨げとならないよう注意しなければなりません。経験の幅が広がっていくことで、より多くの真実が明らかになるなら、どれほど深く根づいた考えであっても常に心を開いて捨て去るべきです。

 貪欲も、高慢さと同じように成長の大きな障害となるので、この両方を徹底的になくしていく必要があります。貪欲は、仲間の魂の成長を妨げるように仕向けるので、実に深刻な結果をもたらします。これを克服するには、次のことを理解しなければなりません。つまり、あらゆる存在は、ただ魂の指示だけに従って、さらなる成長を遂げる為にこの世に生まれていうということ、また、その成長において、誰も仲間を励ます以外のことをしてはならないということです。人は、仲間が希望を持ち、進歩するための知識と経験を増やせるよう可能な限り力になるべきです。それはちょうど私たちが、人生という険しく困難な山道を登る助けを、他の人に求めることがあるのと同様です。自分より弱い、経験のない仲間に対して、何時でも進んで手を貸し、彼らがより広い知識を受け取れるよう努めましょう。この姿勢はまた、子どもに対して、必要で役立つ限り、世話をし、愛と保護を与える親の姿勢であるべきです。加えて、雇主の雇人に対する姿勢、あるいは仲間同士の姿勢でもあるべきでしょう。この姿勢が、決して本人の自然な成長を妨げるものであってはなりません。自然な成長とは、魂に指示されるべきものです。

 人は大抵、幼少期や若い時期には、後年よりはるかに密接に魂とつながりを持っています。そして、人生でなすべき仕事や求められている努力、発達させるべき個性についてより明確に理解しています。それが後年難しくなるのは、現代の唯物主義や環境、つき合う人間が、高次の自己の声から引き離し、理想のない、平凡な物事に縛りつけるからです。現代の文明社会では、そういった全てが非常に明白です。人に影響を与える、親、雇主、仲間の立場にある人は、自分が素晴らしい特権と機会を持つ相手に対して、本人の内なる高次の自己の成長を促すよう努めてください。また同時に、自分が自由であることを望むのと同様、他の人にも自由を与えてください。

 以上のように、人は、自分の気質に欠点を見つけ出し、その反対の長所を育むことで欠点を洗い流せるのです。そうすることで、病の主な根本原因となる、魂と人格の葛藤の元を取り除くことができます。このような行動こそが、回復への信念と勇気を持つ患者に、安らぎや健康、喜びをもたらします。また、その気持ちがあまり強くない患者には、医師の助けが実質的に同様の結果をもたらすでしょう。

 人は、魂の命ずる声に従って、自分らしい個性を真剣に養っていく必要があります。誰も恐れることなく、誰も自分が成長し務めを果たして、仲間の力になるのを妨げたり、思いとどまらせることはできないと気づくべきです。そして、進歩すればするほど、周りの人により大きな恵みとなれることを忘れてはなりません。特に、他の人の力になる時には注意が必要です。相手が誰であろうと関係なく、力になりたいという願いは心の奥底から湧いてくるものでなければなりません。決して他の人の強い意見や説得による、間違った義務感からであってはならないのです。現代に残る因習がもたらす悲劇は、それに類するものです。魂の命ずる声に従って生きることを妨げられた何千という人の人生、失った多くの機会、その悲劇や苦しみは数え切れません。親のかかっている病気といえば、人の注意を引きたいという欲だけであるのに、義務感から病弱な親の世話をおそらく何年もさせられている、数え切れぬほど多くの子どもたちがいます。人格が他の人に支配され、自らの自由を勝ち取る勇気を持たなかったために、人類全体に役立つ重要な仕事をするのを阻まれた、大勢の人について考えてみてください。人生の早い時期に定められた使命を知り、それを行うことを強く望む子どもたちが、やがて困難な境遇、他の人による諌止(かんし)、本人の決心の弱さから、他の人生の支流へと流れを変えます。しかし、どんな流れに進んでも、それでは幸せになることも成長を遂げることもできません。自分の役割が、ひとつ、あるいは多くあるのか、いかに、そして誰に仕えるべきなのかを教えられるのは、良心の声だけです。その声がどのような指示であっても、精一杯その声に従う必要があります。

 最後に、人生に取り組むのを恐れないでいきましょう。なぜなら、人は知識を得、経験を積むためにこの世に生まれているからです。現実に向き合い、出来る限り探求しなければ、学ぶことはほとんどできないでしょう。そのための経験は、至る所で得られます。自然と人間の真理は、田舎でも町の喧騒でも同じようにうまく、むしろ田舎家でならなおさらうまく得られるでしょう。

 

5章

 

 個性の欠如(高次の自己の指示に従うのを阻む干渉を許すこと)は、病気の発生において、非常に重要です。これはたいてい人生の初期に始まるので、ここで親と子、教師と生徒の、あるべき関係について考えてみましょう。

 親の役目とは本来、魂がさらに成長するために、この世との接触を可能にする特別な媒介となることです(それは本当に、神の様な特権ととらえるべきものです)。もし正しく理解するなら、魂が肉体を持ってこの世に生まれるなかだちとなり、その後の数年間、生まれてきた人間を世話すること以上に重要な機会は、おそらくないでしょう。親は、この世の小さな新来者に、出来る限り霊的、精神的、物理的な導きを与えることだけを心掛けるべきです。その小さな存在が、高次の自己の命ずる声に従い、自分らしいやり方で、経験と知識を獲得する為に生れてきた別個の魂であることを忘れてはなりません。彼らがのびのびと成長できるよう、可能なかぎり自由にさせる必要があります。

 魂の役目は、神聖な務めであり、人間が果たすようもとめられる他の役と同様、もしくはそれ以上に尊重されるべきものです。それは犠牲のひとつですから、子どもから何の見返りも求めてはなりません。そして、魂がその若い人格を引き受けるまで、ただ寛大な愛と保護と導きを与えること、与えることだけを目的とすべきであるのをいつも心に留める必要があります。自立、個性、自由は、最初から教えられるべきであり、子どもは、人生のできるだけ早い時期に、自分自身で考え行動するよう促されるべきです。親は、子どもが自分のことをうまく一人でできる様になるにつれて、徐々に管理するのをやめ、その後は、親に対する遠慮や間違った義務感が、子どもの魂からの指示を阻むことのないよう注意しなければなりません。

 親の役目は、世代から世代へと引き継がれる人生の務めです。それは本来、短い間、一時的に保護と導きを与えることを意味します。時期が来たら親はその努力をやめて、子どもを自由にするべきです。私たちが一時的に保護する子どもは、霊的に自分よりもっと経験を積んだ、偉大な魂かもしれません。ですから、親の管理と保護は、子どもが必要とする範囲にとどめるべきであることを忘れないでください。

 子どもを持つことは神聖な務めであり、代々引き継がれる一時的な性質のものです。それは、献身に他ならず、子どもから見返りを求めるべきではありません。なぜなら、子どもは、自分らしく自由に成長したわずか数年後には、自分も同じ役を果たせるようになる必要があるからです。したがって子どもは、遠慮も、義理も、親の干渉も受け入れてはなりません。と同時に、親になることは、以前には自分の両親に授けられていた役目であり、その同じ役を今度は自分も他の人の為に果たす義務があることを理解する必要があります。

 親は特に、子どもを、自分の考えや望み通りの型にはめたいという欲に注意しなければなりません。そして、魂がこの世と接触するために手段となる、神聖な特権と当然の義務の見返りに、恩を着せたり管理し過ぎるのを慎むべきです。如何なる支配欲、すなわち、個人的な動機から子どもの人生を方向づけたいという願いも、貪欲の恐ろしい現れですから、決して許してはなりません。これが若い両親に根づくと、後年、彼らは紛れもなく、人を食い物にする吸血鬼のような存在になってしまいます。ほんのわずかでも支配欲があるのに気づいたら、その始まりで、直ちに抑制すべきです。他の人を支配するよう駆り立てる貪欲に、決してとらわれてはなりません。人は心の内に、自らを捧げて人のために尽くす力を養っていく必要があります。ありとあらゆる有害な行動を流し去れるまで、この力を強めていくべきなのです。

 また、教師は自分の役目が、子どもが人生と世の中について学ぶ機会と導きを与える道具に過ぎないことを忘れてはなりません。子どもたち一人ひとりが、自分なりに知識を吸収し、選択の自由が与えられる時にはいつでも、生きる目的を達成するために必要なことを直感的に選び取っていけるよう教え導くべきです。ですから教師も、親の場合と同様、生徒が必要な知識を得るための最大限の配慮と導き以上に、何も与えるべきではありません。

 反対に子どもは、親の役目が、神の創造力を象徴する神聖な務めであっても、自分の魂に命じられる仕事と人生を阻むような、義務を課すものでも成長を制限するものでもないことを忘れてはなりません。この事実に対する理解が不足しているために、本性が束縛され、支配的な性質が発達して、非常に多くの苦しみが生まれています。現代社会で、その数は計り知れません。ほとんど全ての家庭て、親と子は両者の関係について、全く間違った動機と考え方から自らが牢獄を築いています。この牢獄は、自由を妨げ、人生を制限し、自然な成長を阻みます。そして、関わる人全員に不幸をもたらし、精神的、神経的、ひいては肉体的な不調さえ引き起こします。このような不調が、現代の大半の病気のもととなって人々を悩ましているのです。

 肉体を得たあらゆる魂は、この世での経験を積み、知識を得て、定めた理想に向けて、人格を完成させるという明確な目的のために生まれていることを、しっかりと理解しなければなりません。お互いの関係が何であろうと ― 夫婦、親子、兄弟姉妹、あるいは主従関係であろうと ― かかわりなく、個人的な動機で他の魂の成長を阻むなら、創造主に対して、また仲間に対して罪を犯すことになります。人間の唯一の義務は、自らの良心の声に従うことであり、決して一瞬でも他の人の支配を許すことではありません。魂は、各自に特定の仕事を定めています。人間がその仕事をしない限り(意識していなくても)、魂と人格の間に葛藤が起こり、その葛藤が必然的に肉体的不調となって現れるのです。

 ある人にとっては、自分の人生を他の人に捧げることだけが本当に使命なのかもしれません。しかし、そうする前に、それが魂の指示であって、支配的な他者による過剰な説得や、間違った方向に導く誤った義務感からでないことを、十分に確信する必要があります。また、忘れてはならないことは、人は戦いに勝利するために、また自分を支配する人に対する強さを得るために、この世に生まれているということです。どんな人の影響にも屈してはなりません。いつも高次の自己の声に穏やかに導かれ、静かに落ち着いて自分の務めを果たしながら、人生を送れる段階にまで成長する為に、人はこの世に生まれていることを心に刻む必要があります。多くの人にとって、最大の戦いは自らの家庭にあります。この世で勝利を収めるだけの自由を獲得する前に、まず近親者からの支配と抑圧から自由にならなければなりません。

 どんな人も、大人でも子どもでも、他の人の支配的な抑圧から自分を解放することが、人生で成すべき仕事の一部である人がいます。そのような人は、次のことを心に留めるべきです。第一に、抑圧しようとする人を、運動競技の対戦相手と同様に、敵意を全く持たず、人生という競技を共にする存在ととらえるべきだということです。というのも、そのような相手がいなかったら、勇気と個性を発達させる機会は間違いなく不足するからです。第二に、人生の本当の勝利は、愛と優しさを通してもたらされるということです。その競技に強制は一切あってはなりません。対戦相手に、思いやりや親切心、また可能であれば好意 ― あるいはさらに進めて、慈愛 ― を心のうちに確実に発達させることです。そうすれば、やがて、わずかな干渉さえも許さず、良心の呼び声に穏やかに落ち着いて従えるほど成長できるでしょう。

 支配的な人とは、助けや導きを必要としている人です。つまり、ユニティという偉大で完全なる真理を悟り、仲間を愛する喜びを理解できるようになるための助けと導きを必要としています。真理に対する理解や他の人を愛する喜びを得られないことは、人生の本当の幸福を逃すことですから、私たちはそのような人をできる限り助けなければなりません。彼らに干渉を許す自分の側の弱さは、少しも彼らの助けにはなりません。支配されるのを穏やかに拒み、献身する喜びに気づくよう後押しすることが、彼らの人生の道筋を引き上げる助けとなります。

 自由を獲得し、個性と自立を勝ち取るためには、ほとんどの場合、多くの勇気と信念を必要とします。そして、最も希望のない、成功がほとんど不可能に見える時でも、神の子は決して恐れるべきでないことを忘れないでください。魂は人間に果たせる課題しか与えません。ですから、内なる神を信頼し、勇気を奮って努力を続ける人には必ず勝利がもたらされることを、いつも心に留めましょう。

 

 以上で前半は終りです。

 (集中できなくて何日もかかっちゃった…良かった感謝)

 よくもまぁこんな長いの、目を通してくれましたね? 感謝です。

 後半はこちら↓

『汝自身を癒せ (後半)』 by Edward Bach.(1931年) - シリウス・峠のランプ 大天使ウリエル