シリウス・峠のランプ 大天使ウリエル

 地球上の全ての生命体が、安心して、健康で、楽しく、幸せに暮らす地球になるのが遅すぎてイヤになった。NESARA知らない人もまだいるみたいだしね? で、ブログ始めることにしました。 草々。 2017.8.4.ウリ.

『汝自身を癒せ (後半)』 by Edward Bach.(1931年)

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『汝自身を癒せ (前半)』 by Edward Bach.(1931年)↓からの続きです。

『汝自身を癒せ (前半)』 by Edward Bach.(1931年) - シリウス・峠のランプ 大天使ウリエル

 

 

6章

 

 さて、親愛なる皆さん、ここまでで次のことが明確になりました。まず、愛とユニティがこの世の重要な基盤であるということ。そして、人間は本来、神の愛の子であること。また、全ての過ちや苦しみは、愛と優しさによって永遠に克服できるということです。以上のことがはっきりした今、この美しい全体像の何処に、生体解剖や動物からの腺移植手術を行う余地があるというのでしょうか。動物を犠牲にすることで、人間は自分の欠点や過ちから逃げおおせると思うほど、単純で愚かなのでしょうか。およそ2500年前、ブッタは、動物の犠牲が道徳的な罪であることを世に示しました。人類は、殺生を重ねてきた動物に、多大な恩義があります。しかも、その残酷な行為が人間に役立つどころか、人間界、動物界の双方に害しかもたらしていません。母なる地、古代のインドでは、人々は動物だけでなく、鳥の病気や怪我さえも治療するよう教育され、技術を磨くほど、この世の生き物に深い愛情を抱いていました。そして、広大な聖域を設け、狩猟者は皆病気になると狩りをやめると誓うまで医師に治療を断られるほど、動物を傷つけるのを嫌いました。このような美しい理想から、西洋人は、どれだけ遠く離れ、道に迷って来たのでしょうか。

 生体解剖を行う人を悪く言うのはやめましょう。彼らの多くは、本当に人道的な信念を持って働き、人間の苦しみをなくすことを願って努力しているからです。しかし、動機は十分に良いのですが、知恵に乏しく、生命の道理がほとんど理解されていません。どんなに正しい動機であっても、知恵や知識と結びつていなければなりません。

 腺移植に関連する黒魔術の恐ろしさについては、書くことさえやめます。黒魔術は、神に背く、また人間と動物に背く罪ですから、どんな伝染病よりはるかに悪いものとして必ず避けるよう切に願っています。

 以上のような1つ、2つの例外を除き、現代医学の失敗について詳しく述べることに意味はありません。破壊は、より良い建物を再建するのでなければ無益です。医学の世界では、すでに新しい殿堂の土台が築かれているのですから、その土台を多少なりとも補強することに集中したいと思います。

  また、現代の医師に対する非難も価値はありません。なぜなら、間違っているのは主に体制であって、それに携わる人間ではないからです。体制による経済的な理由だけから、今の医師には穏やかに落ち着いて診療する時間も、内省と熟考の機会もありません。内省と熟考は、患者の治療に命を捧げる者には不可欠です。パラケルススは、「賢い医師は、1日に15人ではなく、5人の患者を診る」と言いましたが、それは現代ではかなわぬ理想です。

 しかし、今、新しい、より良い医師の夜明けが訪れています。100年前にハーネマンが生んだホメオパシーは、長い闇夜の後にのぼる朝日の最初の兆しであり、未来の医療に大きな役割を果たし得るものです。加えて今、人々の注意が生活状況の改善と、より純粋で清潔な食事を取ることに向けられているのは、病の予防に向かう大きな進展です。また、霊的、精神的な誤りと病気との関連や、心が完成の域に達することで得られる治療の両方に関心が集まっているのも、明るい日の光が訪れる方向を指し示しています。その輝く光に照らされて、病と言う闇は消えてゆくでしょう。

 忘れないでいたいのは、病気は誰にでも起こる人類共通の害であるということ、一人ひとりが自らの病を克服することで、自分だけでなく、人類全体を助けることになるということです。病気を完全に打ち倒すには、かなりの量のエネルギーが費やされなければならないでしょう。そのために、あらゆる人が努力すべきです。他の人より健康でたくましい人は、自分の役目を果たすだけでなく、弱い仲間を大いに助けてください。

 病気の蔓延と増加を防ぐ確実な方法は、第一に、病の力を拡大させるような行動をやめること、第二に、病にそれ以上入り込む隙を与える自分自身の欠点を払拭することです。これを達成するのが本当の勝利と言えます。それによって、自分が自由になり、他の人にも自由に手を貸せるようになります。これは初めに思うほど、難しいことではありません。なぜなら、人はただ最前を尽くすことだけが求められていて、魂の声に耳を傾けさえするなら、皆が達成できるという事を心の奥で知っているからです。人生は、自分に出来ないほど厳しい犠牲を強いることはありません。心に喜びを持って、人生を旅すること、そして周囲の人の恵みとなることを求めています。そうして、この世に生のあるうちに、ほんのわずかでもより良いことを残せたら、その時人は自分のなすべき仕事を果たしたと言えるのです。

 宗教の教義は、適切にその意味を読み取るなら、全ての縁を断ち、神に従うようにと説いています。その意味では、自分自身を完全に高次の自己の指示に従わせるという事です。それは、一部の人が想像するような、家庭や安心感、愛情や満足感を捨てることではありません。それは全く事実からかけ離れています。例えば、立派な宮殿に住む王子は、王国の国民、いや、世界全体にとって、天からの恵み、神の祝福です。その王子が自分の務めについて、全てを捨てて僧院での修行の道に入ることだと思い違えたら、多くの恵みが失われてしまうでしょう。平凡な者から高徳な人まで、あらゆる境遇の人が、人生に与えられた務めを果たさなければなりません。運命という神聖なる導き手は、人々の最善のために、定めるべき役目を熟知しています。人は、その与えられた役目を自ら進んで十分果たすことだけが求められています。高徳な人は、修道会の聖職者だけでなく、船のボイラー室や工場の作業場にもいるものです。この世で、人は誰も、自分の務めを果たす為に与えられた力以上のことをするようには求められていません。そして、人間が高次の自己にいつも導かれ、最善を得るために努力するなら、必ず健康と幸福を手にすることができます。

 過去2千年のほとんどの間、西洋文明は、激しい唯物主義の時代をくぐり抜けて来ました。人間の本性と存在の霊的な面での認識は、生命の真理より世俗的な財産、野心、欲望や娯楽を重視することによって、大いに見失われてきたのです。人間がこの世に存在する本当の理由は、与えられた肉体から世俗的な利益だけを得ようとする熱意に曇らされてきました。それは、世俗的な事より深遠な物事を理解することでもたらされる本当の安心感や励まし、そして高揚感の不足した、生きるのが非常に困難な時代でした。過去数百年の間で、宗教は多くの人にとって、生きるために欠くべからざるものというよりは、人生に縁のない言い伝えのようになりました。また、高次の自己の本質や、今生から離れた前世、来世の知識が、行動の導きや励ましとなる代わりに、ほとんど意味のないものになっています。人は物質を越えたものを心の外に追いやり、苦労を埋め合わせる世俗的な快楽に頼ってきました。そうすることで、大切なことを避け、人生をできる限り居心地よくしようと努めてきたのです。そして、過去数百年の間、身分、階級、富と財産は、人間の生きる目標となってきました。しかし、これらは皆はかないもので、物質的な事柄に心を集中し、多くの心痛の種を持つことでしか獲得し維持することはできません。そのようにして、過去の時代で、人々の内的な真の平和と幸福は、人類が当然与えられるはずのものよりもはるかに軽視されて来たのです。

 魂と心の真の平和は、霊的に成長している時、私たちとともにあります。この平和は、いかに富を蓄えようとも得られるものではありません。今、時代は変化しています。社会は、ただの唯物主義の時代から、宇宙の実在とその真理を強く希求する時代へと移行しつつあり、今その多くの兆しを目にすることができます。例えば、物質を越えた世界の真理を知りたいという一般の関心が急速に増大し、また、前世と来世について知ることを望む人も増えています。さらに、信仰と霊的な方法で、病を癒す方法論が確立されたり、東洋の古代の教えや知恵が探求されています。これらは皆、現代の人々が物事の本質に触れていることを表しています。したがって、治療についても、時代の推移とともに、ひどい唯物論に基づく治療から、真理の実在の上に築かれた人間の本性を司る神聖な教えに則った科学の治療へと変化していかなければなりません。医療は、肉体を扱う物質的な治療法から、精神的、霊的な治療法へと移行していくでしょう。そして、魂と心の調和をもたらすことで病気の根本原因を一掃した後、肉体を完治させるために、物理的な手段を必要に応じて用いるようになるでしょう。

 医師が以上のことを十分に理解し、人々の霊的な成長とともに歩まない限り、治療術は、修道会、あるいは、いつの時代にもいる純粋な治療者の手に移る可能性は大きいように思えます。この世には、生まれながらの転職に携わることを保守的な人々に阻まれ、殆ど見過ごされてきた純粋な癒し手がいるものです。したがって、医師は将来、主に次の2点を目指すようになるでしょう。その第一は、患者が自分のことを理解できるよう促すことです。そして、犯している根本的な間違いや、性格において改善すべき不十分な点、また、対応する長所に置き換えてなくすべき性質の内にある欠点を指摘することです。そのために。人間の本性とそれを司っている原理を熱心に研究する必要が出てくるでしょう。そうして、医師は治療に訪れるあらゆる人の中に、魂と人格の葛藤を引き起こしている要素を明確に見つけ出せるようになるでしょう。患者に調和をもたらす最善の方法、やめるべきユニティに背く行為、欠点を払拭するために養うべき長所について、医師は助言できなくてはなりません。患者一人ひとりを、注意深く観察することが必要になるでしょう。心に人を助けたいという情熱を持ち、人々を理解することに人生の多くを捧げてきた者だけが、人類のためにこの輝かしい神聖な仕事を見事に引き受けることができます。そして、患者の目を開かせ、生きる意味を教え、病気の克服を可能にする希望と安心感と信頼を奮い起こすことができるのです。

 また、医師が目指すべき第二の点は、患者の心身全体に平和と調和をもたらすレメディ―を与えることです。レメディ―は、心が安定して視野を広げ、完成に向かう努力を後押しし、体が力を取り戻すのを助けて、心身全体に平和と調和をもたらします。そのようなレメディ―は、自然の中にあります。人間の病の治療と慰めの為に、神聖なる創造主の恵みによって自然の中に授けられています。 ~ 少し省略 ~

 

7章

 

 さて、ここで私たちは、いかにして自分自身を救うことができるのかという非常に重要な問題にたどり着きました。いかに心と体を、病気に襲われにくい、いや、襲われない調和した状態に保つことができるのでしょうか。葛藤のない人格が、病に抵抗力を持つのは明らかです。

 ですから、まず心について考えて見ましょう。これまで詳しく考察してきたように、人間は自分の内に欠点を見つけ出し、反対の長所を育てることで、欠点をなくしていく必要があります。欠点とは、魂の命ずる声に従わず、ユニティに背くよう人を導くものです。欠点を見つけて長所を養うことは、すでに具体的に述べてきた道筋に沿って行えます。偽りのない内省が、欠点の性質を浮き彫りにするでしょう。霊的、精神的な助言者や真の医師、親しい友人は、自分の状態を正確に把握する助けとなるはずです。しかし、自分の状態を知る完璧な方法は、静かな熟考と内省です。また、自分自身を平和な雰囲気で満たすことで、魂は、良心と直感を通じて語りかけ、魂の望む通りに人を導くことができます。毎日、誰にも邪魔されず、たった一人で過ごす時間を少し取ってください。そして、できる限り静かな場所に、ゆったりと座るか横になり、心を空っぽにする、あるいは、人生の仕事について落ち着いて考えてみるのです。するとやがて、とても大きな力が与えられていうことに気づくでしょう。いわば、知識と導きのひらめきがもたらされるのです。人生の難問にも、はっきりと答えが与えられると分かり、自信をもって正しい方向を選択できるようになります。そのような機会を通じて、自分の魂の声に従って人類の役に立ち、与えられた仕事を行いたいという真剣な願いを心に持ち続けることができます。

 欠点に気づいた時、その改善策は、欠点と闘う戦場にはありません。また、欠点を無理矢理抑え込むのでもないことを忘れないでください。欠点を矯正する方法は、相反する長所を着実に発達させることにあります。それによって、不快な存在のあらゆる痕跡を、自分の気質から自然に洗い流すことができます。これが欠点を克服し成長するための、自然にかなった純粋な方法です。個々の欠点と戦うより、はるかに容易で効果的です。欠点と戦えば、かえってその力を増大させ、意識を問題に集中させて本当に闘いをもたらします。非常にうまくいった場合でも、満足からはほど遠い押さえつけによる克服しか期待できません。なぜなら、敵は依然として存在し、人が気弱になるとまた現れるからです。欠点を気にせず、その力を失わせる長所を養うよう意識して努力すること、これが本当の克服と言えます。

 例えば、心に残酷な性質があるとしましょう。それを改善するひとつの方法は、「私は残酷にならない」と常に自分に言い聞かせ、道を間違えないようにすることです。けれども、これがうまくいくかどうかは、本人の精神力にかかっており、その気が萎えれば、自分の正しい決心をあきらめることもあるかもしれません。しかし逆に、心から仲間を思いやれるようになれば、この思いやりが残酷さをきっぱり存在し得なくするでしょう。それは、仲間を思いやる気持ちが、残酷な行動を避けるよう導くからです。この方法に抑圧はなく、油断した時に進み出てくる隠れた敵もありません。思いやりの気持ちが、他の人を傷つけ得るどんな行動も、人間の性質から完全に一掃してくれます。

 先に考察した通り、肉体に現れる病気の性質は、その発端の根本原因である心の不調和を特定する際に大いに役立ちます。また、もうひとつの重要な要素は、生きる意欲を持つことです。人生を単に、できる限りの忍耐で我慢すべき義務ととらえるのではなく、この世を旅する冒険であり、本当の喜びを深める機会と考えるべきです。

 唯物主義による最大の悲劇は、退屈さの増大と内的な真の幸福感の欠如でしょう。唯物主義は、苦労の埋め合わせや満足感を、世俗的な快楽や娯楽に求めさせようとします。けれども、これらは全て一時的に困難を忘れさせる以外、何ももたらすことはできません。苦労の埋め合わせを、金銭であがなった娯楽に求めるようになると悪循環が始まります。本来、娯楽、気晴らし、軽い冗談は、人間にとって良いものです。しかし、悩みを一時的に軽くするため常に頼り続けるなら、良いものとは言えません。この世のあらゆる娯楽は、人を惹きつけておくために、絶えずその力を増していく必要があります。そうしなければ、昨日の感激は明日の退屈に変わってしまうからです。それで人は、すっかり飽きて満足を得られなくなるまで、他のもっと強い刺激を求め続けるのです。何らかの形で世俗的な娯楽に頼る様になると、どんな人も、自分の欲のために悪魔に魂を売ったファウストのような存在になってしまいます。自覚することはあまりないかもしれませんが、生きることが我慢すべき義務でしかなくなり、子どもが必ず生まれながらに与えられ、生涯持ち続けるはずの本当の意味での生きる意欲や喜びが皆消えてしまうのです。また、今日の科学的な成果も極限状態に達しています。若返りや延命を実現し、肉体的快楽を増大させるための非道な手段による開発が進められています。

 退屈な状態は、一般にりかいされているよりもはるかに多くの病気を招いています。今日、この状態は人生の早い時期に起こるので、退屈が関係して起こる病もより若い年齢で現れます。しかし、人が、自らの内に神性を備えているという真理や、この世での務めを理解することで、経験を積み、人の力になる喜びを得るならば、退屈な状態に陥るはずはありません。退屈を解決する方法は、周囲のあらゆるものに積極的で旺盛な関心を持つことです。また、常に人生を注意深く観察し、万物の背後にある真理を仲間や日常の出来事から学んで、学んで、学び尽くすことです。そして、知識と経験を得る喜びに我を忘れて没頭し、共に旅する仲間の為にいつでも役立てられるよう、機会に備えておくことで退屈を一掃できます。そのようにして、働き、遊ぶ、あらゆる瞬間が、学ぶことへの熱意、すなわち、勇気ある冒険や、やりがいのある行動を、実際に体験したいという強い願いをもたらします。この熱意を強めていくにつれ、ほんの小さなことからも喜びを得る力を取り戻していることに気づくでしょう。そして、以前には単調で退屈だった出来事が、冒険と探究の機会となるので素。こうして見い出される本当の喜びとは、日常の単純な物事の中にあります。なぜなら、単純なことこそ、大いなる真理に近いからです。

 あきらめは、人を人生という旅路で、観察力のないただの通行人にしてしまいます。そして、計り知れない悪影響への扉を開けてしまうのです。それは、日常生活が冒険精神と冒険する喜びに満ちている限り、決して入り込むことのなかったものです。与えられた仕事が何であろうと ― 人のあふれる都会の労働者であろうと、人里離れた丘陵の羊飼いであろうと ― 退屈を興味へ、単調な義務を楽しい経験の機会へと変化させ、日常生活を、宇宙の偉大な根本原理と人々への慈愛の精神を情熱的に学ぶことへと変えるよう努めましょう。あらゆる場所で ― 山々や谷あい、あるいは人々の中でも ― 万物創造の原則を観察する機会が十分にあります。まずは毎日の生活を、興味の尽きない冒険へと変えましょう。そうすれば、退屈することはなくなります。そのようにして得た知識によって、魂と心を一致させ、また、神の創造した偉大なるユニティと心を調和させるよう努めてください。

 また、生きる意欲を持つためのもうひとつの根本的な助けは、あらゆる恐れを捨てることです。恐れは、実のところ、人間界には本来存在する余地のないものです。なぜなら自分自身である内なる神性は、不屈で永遠の存在だからです。そのことをただ理解するだけで、人間は神の子として恐れるものは何もなくなります。恐れは、唯物主義の時代において、人間がこの世の所有物を(それが肉体であろうと外的な豊かさであろうと)重視する度合いに比例して、必然的に増大しています。これらが私たちの世界の全てであるとしたら、とらえる機会を逃すのではないかと極度の不安が湧き起こり、実際に機会を逃してしまうこともあるかもしれません。それは、この世の所有物が、とてもはかなく、手に入れるのが難しく、ほんの一時しか所有できないものだからです。はっきり自覚していようといまいと、人間は絶え間なく続く恐れの中で生きざるを得なくなります。心奥の自己において、人はこの世の持ち物が今にも奪われるはかないものであり、せいぜいそくしても、短い人生の間だけしか所有できないことを知っているのです。

 現代、病気の対する恐怖は拡大し、非常に有害な力となっています。それは、恐怖心が恐れているものへの扉を開け、入り込みやすくしているからです。恐怖というのは、実は私欲と同じものです。というのも、人間が他の人の幸福に我を忘れて、真剣に没頭するなら、個人的な病を心配する暇はないからです。

 現在、恐怖心が病気の勢いを強めています。それは現代科学が、まだ十分に立証されていない発見を一般社会に広めることで、恐怖の影響力を拡大して来たからです。病気に関係する細菌やさまざまな病原菌に関する知識は、何万という人の心にパニックを引き起こしました。そして、人々の中に呼び起こされた恐怖が、かえって人を病にかかりやすくしています。細菌の様な微生物は、肉体的な病気に関係しているか、一部が誘因となっていることもあります。しかし、科学的にあるいは当然の事として説明のつくような、真相の全てでは決してありません。科学が物理的な根拠に基づいて説明しきれない要素があります。それが、同じ感染の可能性を持ちながら、病に冒される人もいれば、冒されないで済む人もいる理由です。唯物主義は、病の要因が物理的な次元を超えたところにあるのを見落としています。どんな病であろうと、その要因こそが、日常の暮らしの中で、人を病から守ったり、かかりやすくしているのです。恐怖は、人の心を落ち込ませることで、物理的な体と磁気的な体に不調和を引き起こし、病が入り込む隙を与えます。細菌やそれに類する物質的な要素だけが、確かで唯一の病の原因であれば、それを恐がらないようにと言っても難しいかもしれません。しかし、一番悪い伝染病でさえ、感染の危険にさらされた人の一部だけが病に冒されています。また、これまで見て来たように、病の本当の原因は人格にあり、それは自分で管理できるものです。このことを理解するなら、人は、自分自身に病を治す手立てがあることを悟り、恐れず勇敢に行動できるようになります。そして、物質的な要素だけを病気の原因ととらえることで生まれる、あらゆる恐れを心から払い除けることができるのです。それは、病気を心配することが、かえって病気にかかりやすくしていることに気づくからです。また、人格に調和をもたらすよう努めるなら、病気を心配する必要はほとんどないこともわかるからです。稲妻に打たれるか、落下した隕石のかけらにぶつかる以上に、病気の心配をする必要はなくなります。

 さて、ここで物理的な肉体について、よく考えて見ましょう。決して忘れてはならないのは、肉体は、魂の地上の住処に過ぎないという事です。人間は、経験と知識を得るために、この世と接触できるよう、ほんの短い間肉体に住んでいるに過ぎません。自分の本質と肉体をあまり同一視し過ぎず、自らの務めを果たすために、健康で、より長く生きられるよう体を尊重しいたわるべきです。決して一瞬でも、体を意識しすぎたり、過剰に心配してはなりません。できる限り気にしない様にして、体を魂と心の乗り物、あるいは、人間の意志を行動に移す働き手として使うべきです。体が、内外ともに清潔であることは非常に重要です。外的な清潔さについて言えば、西洋人は、入浴の際、熱すぎる湯を使っています。これは毛穴を開かせ、体内に汚れを入り込ませてしまいます。加えて、石鹸の過剰な使用は肌の表面をべとつかせます。目立つ汚れを落とすのに必要な量だけを使い、その後は真水できれいに洗い流すと良いでしょう。シャワー、あるいは数回湯を変えて流す時には、冷水かぬるま湯がより自然で、体を健康に保たせてくれます。

 体内の清浄さは、食事にかかっています。清潔で、滋養に富んだ、出来る限り新鮮な食べ物だけ ― 主に、天然の果物、野菜、ナッツ類 ― を選ぶのが良いでしょう。動物の肉は、間違いなく避けるべきです。それは、第一に、体内に多くの毒を物理的に発生させ、第二に、異常な過度の食欲を刺激し、第三に、動物界への残酷さを余儀なくさせるからです。そして、体内を清潔にするために蒸留した人工飲料を避け、多量の水分 ― 水と天然のワイン、大自然の恵みをそのまま活かした飲み物 ― を取るべきです。

 また、睡眠を取り過ぎるべきではありません。人々の多くは、眠っている時より目覚めている時の方が自分を管理できます。昔の人の言う「寝返りを打ったら起きる時」という言葉は、いつ起きるべきかについてすばらしい導きを与えてくれます。

 衣類は温かさが保てる程度に、軽いものにした方が良いでしょう。そうすることで空気が体に届き、日光と新鮮な空気が可能な限り肌と接触できます。また、水浴びや日光浴は、生命力や治癒力を大いに与えてくれます。

 あらゆる点で快活さは養われるべきであり、人間は疑いや落胆に押しつぶされないようにしなければなりません。疑いや落胆は人間の本質ではなく、魂は喜びと幸せしか知らないという事を忘れないでください。

 

8章

 

 以上のように、病気の克服は次の4点にかかっています。第一に、人間の本性には神性があり、その神性によってあらゆる間違いを乗り越える力があると気づくこと、第二に、病気の根本原因は人格と魂の葛藤であると理解すること、第三に、その葛藤を引き起こしている欠点を発見できる意欲を持つこと、第四に、欠点の反対の長所を育てることでどんな間違いも取り除ける、ということです。

 ~ 省略 ~

 人間は、自らの役目として、心を平和に保ち、魂と調和し、個性を守り、目的をしっかり持たなければなりません。私たちは本来、神から生まれた創造主の子どもですから、完成の域に達する力を内に備えています。それを一心に養うなら、やがて最終的に必ず完成に至る力を得られるでしょう。そして、このことが最大の特質となるまで、心の内で強めていく必要があります。人はいつも平和な心を保たなければなりません。心を、常に穏やかな湖、静けさを妨げるさざ波ひとつない湖と想像してください。このような平和な心の状態をゆっくりと育んでいくことで、どんな状況でも、日常の出来事や環境や他の人が、湖面を波立たせる、つまり心に苛立ちや落胆、疑いの感情を引き起こすことはできなくなります。毎日、少しの時間を取って、心の平和の素晴らしさと平穏の恩恵について静かに考えることは大きな助けとなります。また、多くの事を達成するのは、心配したり慌てることによるのではなく、落ち着いて冷静に考え、行動することで、全てがより効率よく行えると気づくことも、大きな力となるでしょう。この世での行動を魂の願い通りに調和させ、この世の試練や苦難に乱されない平和な状態であり続けることは、実に偉大な達成であり、人に理解の及ばぬほどの平和をもたらします。はじめは、夢にもかなわぬことのように感じるかもしれません。しかし、忍耐と不屈の努力を持って取り組めば、現実のあらゆる人の手に届くものです。

 人は皆が聖人や殉教者、高名な人物になるよう求められているわけではありません。ほとんどの人に、あまり目立たない役割が与えられています。けれども、あらゆる人が人生の経験と喜びを理解し、内なる神に定められた特別な仕事を自ら進んで果たすことが求められているのです。

 病気の人にとって、心の安らぎや魂との調和は回復への最大の後押しです。ですから、医療と看護は将来、これを患者の心に強めていくことにもっと注意を払うようになるでしょう。今日の医学は、物理的、科学的な手段でしか病状の経過を判断できません。そのため、回復に不可欠な心身の穏やかな休息やくつろぎを促すより、それを妨げるような頻繁な検温や多くの看護を重視しています。いずれにしろ、まだ病気の軽いうちに数時間完全にくつろぎ、高次の自己と調和を取ることさえできたら、病気を予防できることは間違いありません。まずは、病の始まりで自分を静かに落ち着かせる必要があります。キリストが、嵐の中ガリラヤ湖で小舟に乗り、湖に向かって「黙れ。静まれ」と命じたことに象徴されるように、心を静め、落ち着かせることです。

 私たちの人生に対するとらえ方は、人格が魂にどのくらい近いかによって決まります。魂との調和に近づけば近づくほど、心和やかに安らいでいられます。そして、より高い領域の光あふれる喜びや真理の光が、もっと鮮やかに輝くようになるのです。というのも、この喜びや真理の光は、神の永遠なる真理を土台としているので、世の中の困難や恐怖にひるむことなく、人間をしっかりと支えてくれるからです。また、この世の出来事がどんなに痛ましく見えようとも、人間の成長におけるほんの一時の経験にしか過ぎないことを確信できるようになります。また、病気でさえ本来は有益であり、最終的に人間に役立つよう意図され、必ず完成へと促す特定の法則が働いています。このことを理解する人は、他の人にとってはひどい重荷となる出来事にも、影響を受けたり落胆し動揺することはありません。そして、確信のなさ、恐れ、絶望の全てが永遠に消えていきます。人間が自分の魂、すなわち、天に在す父なる神と常に一体であるなら、その時にこそ、この世界は本当に喜びの場所となり、いかなる悪影響も受けなくなるのです。

 人間は、自分の内なる神の偉大さを悟ることや運命の強大さ、前途の輝かしい未来を知ることはできません。それが出来たら、人生は挑戦ではなくなり、努力することも真価を問うことも必要なくなるでしょう。人は普段、その偉大なるものに気づかないでいますが、長所とはそのような気づかぬものの中にあります。また、この世の困難から学び、賢明に生きる勇気と信念を持つことの中にも長所は存在します。私たちは、どのような方法でも、高次の自己との交流によって心の調和を保つことができます。その心の調和こそが、この世のあらゆる障害を乗り越え、道を迷わせる影響力に負けることなく、自分に定められた使命を果たす為の真っすぐな道に沿って、人生の旅路を進むことを可能にしてくれます。

 次に、自らの魂の命ずる声だけに従い、環境や他の人に振り回されることはなくなります。そして、自分自身の主、すなわち人生という荒波に浮かぶ船の船長になれるのです。自らの心に正直な舵取りを決してやめず、何があっても他の人に任せてはなりません。人は、どんなことがあっても必ず、自由を手に入れなければなりません。自由になることによって、行う全ての事、あらゆる行動や思考さえもが、内なる源から引き出されるようになります。そうして、自発的に、ただ自発的に、自らを与えて生きられるようになるのです。

 これに向かう最大の障害が、ごく身近な人である場合があります。それは、因習によってもたらされた恐怖と間違った義務感が、今の時代に恐ろしいほど広がっているからです。ですから、私たちは勇気を強めていかなければなりません。とても多くの人が、人生の大事に直面する勇気を十分に持っているように見えながら、その実、身近な人との関係で勇気を持てずにいます。人は個人的な感情を交えず、物事の正誤を判断し、身内や友人の前でも恐れずに行動する強さを持たなければなりません。何と多くの人が、外の世界では英雄であるのに、家では臆病者なのでしょうか。使命を果たすのを妨害する手段は実に巧妙かもしれません。しかし、見せかけの愛情や好意、あるいは間違った義務感、他の人の願いや欲のために、人を奴隷にするようなやり方 ― そのような全てを、私たちはきっぱりと捨て去るべきです。周囲の人からの干渉を受けないようになるためには、魂の声、その声だけが自分の従うべき務めであることを心に留める必要があります。個性を最大限に育て、自らの魂の導きと助けだけを頼りに生きることを学ぶべきです。そして、可能な限りのあらゆる知識と経験を、自由に得られるようになるべきでしょう。

 また同時に、自分自身も必ず人に自由を与えるよう気をつけなければなりません。そして、人に何も期待せず、逆に人が困難に直面し助けを必要としている時にはいつでも進んで励まし、力になるべきです。このようにして、人生で出会うあらゆる人は ― それが母親であろうと、夫であろうと、あるいは子ども、友人、または見知らぬ人であろうと ― 共に旅する仲間になります。その仲間の精神的、霊的な成長の度合いは自分と異なるかもしれません。しかし、皆が人類という仲間の一員であり、同じ輝かしい目的を目指して共に旅する大いなる共同体の一部なのです。

 人は、勝利を獲得するための不動の決意と、山頂に達するための強い意志を持つべきです。途中で滑って転んだことを一瞬でも悔いてはなりません。間違いや挫折なくして、大きな進歩を遂げることはないのですから、将来つまずくのを減らす経験ととらえるべきでしょう。また、過去の間違いを思い返して、決して落ち込んではなりません。それはもう済んで終わったことです。間違いから学んだことは、同じ過ちを繰り返さないための助けとなります。人は休むことなく着実に前進し続けるべきです。決して後悔したり、振り返ってはなりません。一時間前でさえ澄んだ過去であり、私たちの前にこそ光輝く素晴らしい未来があるのです。人は、あらゆる恐怖を心から追い払わなければなりません。恐怖心とは人間に決して存在するはずのないものです。人が自分の神性を見失っている時にだけ現れるものであって、恐れは、人間の本質ではありません。私たちは創造主の子、神の生命の火花として、無敵で不屈な永遠の存在です。一見、病気は残酷に見えます。それは、病気が他の人に対して残酷になるような、間違った思考や行動の報いであるからです。したがって私たちは、慈愛と友愛という特質を、最大限に養っていく必要があります。そうすることで、後に残酷なことをしてしまう可能性を消し去ることができます。

 愛する気持ちを育めば、ユニティをはっきりと理解できるようになります。つまり、人は誰もが、神の偉大な創造物であるという真理に気づくようになります。

 人間の悩みは全て、大いなる源との分離感が原因です。これは、愛を養い、偉大なるユニティを心から理解すれば、すぐに消えてなくなります。宇宙は神の表れです。神が再誕して、宇宙は生まれ、宇宙の終末、神はさらに進化しています。ですから、人間について言えば、体は自分の内面の表れであり、内的な性質が現実に形を成したものです。つまり、人は本性を表現し、意識の特性を体現していると言えます。

 西洋文明には、キリストが人々を導くためにあらわした素晴らしい手本があります。それは、完成の域に達するための偉大なる規範と教えです。彼は人々のために、人格と魂の仲介者の役を務めました。この世でのキリストの使命は、いかに高次の自己、すなわち天国の父なる神と調和して一体となり、万物の大いなる創造主の御心に沿って完成の域に達するかを教えることでした。

 同様に、ブッダ、そして人々を導くために時あるごとに地上に降りてきた偉大なる師たちも、いかにして完全な段階に到達できるかを示してきました。人間が完成に向かう道に、中途半端というものはありません。私たちは真理を認め、受け止めなければなりません。そうして、創造主の無限なる愛の計画と自分自身を、たがうことなく一致させていかなければなりません。

  ですから、兄弟姉妹の皆さん、自らに神性があることを受けとめ、その意味を理解して、輝く太陽の光のもとに出てきてください。そして、幸福になり、幸せを分かち合うという「完全なる計画」に加わるよう、真剣に、断固として、自分のなすべき仕事にとりかかってください。神の願いに従うためだけに存在し、若い仲間の力になることを大きな喜びとするホワイト・ブラザーフッドと力強い絆を結んで、仕事を始めようではありませんか。

 (以上で、転載は終わりです。)

 

 やっと打てた…。

 この世界の支配者層の一人、ロックフェラーさんの主治医は、ホメオパシー医療の医師だそうです。その医師もルネ・カントンさんの海水療法を用いていたそうです。

 この世界から病気がなくなってしまったら、医療業界に投資してる支配者層の彼らは儲からない。彼らにとって、医療機関(全部だけど)は、商売でしかない。なので薬は、病気を治すものじゃなかったんです。

 想像を絶するでしょうけど…。

 薬やワクチンには、水銀、ヒ素、遺伝子組換えetc、とか毒が入ってる(ものある)そうです。

 被害が多発してる。信じられない人はYoutubeとか見てみてね?

 医師、歯医者の殆どは、病気について、この世界の支配の実態、なんも分ってなくて、医者、やってると思う(中にはもろ商売で医者やってる人もいるみたいだ)から、医者から言われたことを、何でもハイハイと、聞かないほうがいいと思います。人間には、ちゃんと免疫力というものがあるんですから。

 歯医者では、毒物産廃として処理するしかないフッ素(F素)や、水銀、環境ホルモンが入ってる物を使っている。

せめて、「フッ素が入ってない物を使って下さい。フッ素を塗らないで下さい」と言ったほうがいいです。

 (参考)

 ◎タダ(無料の意ね?)の海水を用いて、数十万人の病気を治した全体医療の医師、ルネ・カントンさんについて↓

 ◎重曹と海塩のお風呂は、癌や放射能だけでなく、身体の排毒と帯電も洗い流してくれる感じするよ? 曲げた時、痛くなくなったとかね?

 お風呂場とか塩で洗うんだけど、そん時も(裸足で掃除した時)、あとで膝が痛くないなぁと思った時、あったけどね?

「 ●お風呂や飲料水に重曹を:

 放射能毒を体内から排出する為には、お風呂のお湯に海塩と重曹を1/2カップずつ入れてください。毎日20~30分間を約3週間、又は、2日に1度、6週間、そのお湯に浸かります。 (←抜粋です) 」

 *震災後UpしてくれたToniさんの「おかえりなさい」(だったかな?)元のページがなくなってるので全文はこちら↓を紹介させて頂きます。

重曹は放射能汚染除去にも強い威力 - るいネット

 以上、参考、終り。

 まぁこれで良しにする。やっと打てた感謝です。

 ここまで目を通してくれたあなた様にも感謝です。くたびれましたか?

 間もなく、病気はすぐ治り、若返るそうですから、できるだけ毒なものは取らないほがいいとは思いますが、体の心配はあまりし過ぎないで、元気でいてくださいね?

 それでは、また。    草々。

                 2018.0114. ウリ.